火鉢のヘリはおりがみをするのに適している。
私などは小さい頃、外でばかり遊んでいたから、おとなしくおりがみで遊んだ記憶がほとんどない。
最近になって初めておもちゃ売場をうろついて、子供に買ってあげるような顔をして、ちゃっかり自分のおりがみをうれしそうに買って帰ってくる。
私は両面創作おりがみというやつが、きれいだから気にいっている。 もし買うとしたら、これがおすすめだ。
「いまさらおりがみだなんて、小学生のお遊びじゃあるまいし」と思っているアナタ。 この単純な遊びの中に、実は貴重な心の財宝が埋まっているのだ。
今回は又特別に、そのお宝を掘り出してビンボウな心を豊かにしてゆくという過去に前例のない大胆な企画で話を進めていくことにする。
名づけて「おりがみ操体、温故知新」。 (やれやれ、また大げさな表現になってしまった)

一枚のおりがみを準備する。 なにかを作ろうとすると、どうしても初めに中心が必要だ。 図のように三角に折って開く(2回目)と斜めのラインが交差して中心ができる。 その中心に向けて四角(ヨスミ)を折る。 同じくもう一度折る。 もっと小さくなるがもう一回折る。 またまた小さくなるがあと一回折る。 全部で四回折った。 セロテープでしっかりと固定する。 ただ中心に折って行くだけだから難しくはない。 こうしてちっちゃい固まりが出きる。
このままではいくら見ていてもおもしろくも楽しくもない。 もしやその先で何かになるのではないかと思うのは私だけだろうか。 アナタもそう思うことはわかっている。
テープをはがして中をのぞいてみたくなる。 だれかにおみやげの包みをもらったら、開けて中のものを見てみたくなるのと一緒だ。 包みの中に何があるのか見たくて、ワクワクしながら手がひとりでに包みを開く。 中が少しずつ見えてくる。 今までの色とは違う、隠れていた中の色が中央にくっきりと表れ、×印の一点を目の当たりにする。
おっとどっこい、一点に気づいたとき、予期せぬ事態が起こっている。 何かを作る考えもなく、なんとなく開けて見たら、ひとりでに「花」になっているのだ。 これにはホントびっくりした。 さて、ここからの発想が実に奇想天外で私らしい。
ちっちゃい固まりの時を「人間」と考える。 しっかりと心を閉じている姿だ。 ある時期が来て何かのきっかけで、本来の自分の心を開けて見たくなり、開花し、ニセモノ色で閉ざしていた自分の心が、本当は自分色に咲くきれいな花だったことに気づく姿なのだ。 そしてよーく見ると、きれいな自分色の中心に一点を見つける。 そういえばモトはといえば一点を作ることから始まったのだ。
となると人間の時は、花になるためには避けて通れない大切な準備過程だったということだったし、きれいな花になるには、一度は苦しいことが多少ある人間を生きて味わう必要があったのだ。
だとすると、善し悪しのラインもあるべくしてあり、妙な快感や苦痛などもそれなりに味わってこそ初めて自分の心の中に興味が向いてきて、花への道をたどるようにあらかじめ仕組まれていたのだ。 きっと。

橋本先生も目に見えない世界のことを勉強していて、七天が太極とか、無限界とか波動とか素粒子とか言ってたけど、こうしておりがみで解いてみると、先生のとられていたことがわかってくるような気がする。
まず、おりがみの一点ができて七天というか七次元、一回折ると六次元、二回で五次元、三回で四次元、四回目で三次元の人間になる。
こじつけにしては、つじつまが合いすぎておもしろい。
こうして自分の心というか魂のエネルギー的な部分を反対にさかのぼってみると、やっぱり故郷というか親というか、たどりつくところは一点ということになる。
一点が親で、人間が花になって初めて(コ・光)になる。 親の光が子の光そのもので、親子でいつもキャッチボールができるようになるのだ。
花(波ナ)・子(光)・・・・・・・・・・・・・親・一点(絶対エネルギー)おりがみの一点は、目に見えるから自分が親そのものだったとわかるけど魂の一点や光となると目に見えない。
目に見えないものは見えなくなっているから見えないのが自然だし、音だってある範囲の波長のものしか聞こえないから助かっているのだ。 余計な音まで聞こえたらうるさくって夜もぐっすり眠れない。 などとひとりごとをつぶやいて、単純な子供のお遊びの中に、心のどこかで求めていたものをはっきりと形で見せられたような、そんな想いで本物の花に目をやり、見えない光と波が見える形に表れた美しさに共鳴する私だった。 言葉や文字は実におもしろい。 今まで当然だったと思って使っていた文字の意味や由来を考えると、昔の人はエライと想うし、大切なことをちゃーんとわかっていたのだ。 例えば、1〜10までをヒフミヨイムナヤコトと数えた。
これは、数ではなくてエネルギーの順番を表しているのだそうだ。 ヒは、火とか日などの漢字のヒ、そしてフは、風のフ、ミは水のミ、ヨは世の中のヨ、と流れ、48音目がンとなる。 人間のことをヒトとも呼んでいるが、どこがどう違うのだろう。 エネルギー的に観ると、ヒトはヒからトまでのエネルギーで成り立っているという。 ヒは体温が約36.5度あることでなんとなくわかるし、トは十だから、中心に一点をバランスよく保っている様に見える。 人間は人のエネルギー本体の魂のヒ(日)を門で隠して閉ざしている姿になっているのではないか。 こうなると、人間と人(ヒト)は外見は同じでも中のエネルギーレベルが違うことがよくわかる。 人間をやめて人(ヒト)・花になれ、ということかもしれない。
それから元気は字のごとく、元(モト)の気(キ)を受け取ることだし、素直はやはり素(モト)と直(ストレート)に結ばれている姿になる。 本来の自分とは本(モト)から来た自然の分身だ。 昔のヒトがモトという見えないけれどもアルと観じた一点を示したかったその想いが文字の中に刻まれているような気がする。 みずから行うは、水からで、自分のからだもほとんどが水だから水が大切などともとれる。 あきらめるは、明らかな目で見ることだ。だから本当はあきらめることが肝心なのだ。悟りはサトリで良いラインと悪いラインの差がとれること。 などなど結構楽しめる。 言葉の場合は、音(波)になり、人間はそこに善し悪しの限定イメージと感情とリズムがのっかる。例えば、親が子供のためを思って無理して「素直だねェ―」と子供をほめる。 子供は親の言いつけを守ってキライなのにガマンしてファミコンをして留守番をしていたとする。 子供は本当は山へ芝刈りに行きたかった(女の子であれば川へ洗濯でもいい)とすると、素直ではなかったのにほめられたことになる(妙な感覚)。 もし、子供が素直に山へ行ったら、親に「この子は素直でない!」としかられるのだ。 ここでほめられることが良いことで、しかられることが悪いことというラインが生まれる。
なにが素直なのかわからなくなってしまいそうだが、「素直だねェー」の言葉には、親が勝手にきめつけた、言うことをきく良い子のイメージと、自分の都合に合わせてもらえた浮き足立つ嬉しさ、そしてそれらのリズムがのっかっているのだ。 本来(ヒト・花)の素直は、考えない行動(光動)だ。 瞬間的にひらめいたことを理由づけをせずに、すんなりと軽く、即やることだ。子供はニコニコ山へ行き、イキイキと芝を刈ってどろんこになってホイホイと帰ってくるのが素直だ。 しかられてもいいのだ。 親はしかるのが素直だ。 言葉に純粋な快のラインの光をのせれば、、、。
橋本先生なんか、しょちゅうほめたりしかったりしていた。 私は先生に、「やってみなくっちゃわがんねェんだ!」とどなられてしかられ、「そこがわがればたいしたもんだ!」とひっぱたかれてほめられ、純粋な快ラインを流れる波の音に素の光をのせた言葉を教わったような気がする。
素直にしかられると、素直に嬉しいから不思議だ。
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