温古堂というのは、橋本敬三という医師であり鍼灸師である人の診療所の名前である。
皆この先生を翁先生とか、温古堂先生とか言うが、本人は“おんころや”と名付けて、名刺まで作り遊んでいる。
名刺など誰にあげるでもなく、引き出しの中にそっくりきれいにしまってある。
診療室には、中央にゴザをひいたベッドが一つ、そのそばに御自慢の火鉢。
真夏でも炭が入って、鉄ビンからから湯気がプープー吹き出ている。
患者さんよりもお客さんの方が多く、みんな火鉢を囲んでおんころや先生とアーでもないコーでもないと世間話に花が咲く。
本物の花も咲いている。
翁先 生曰く、
「花見て怒るやつはイネェがらなぁ」。
まあ、それもそうだけど……。
火鉢の前には、これもまたいろんな物が揃っている。
まず長〜いキセル。それから繭で出来ているニワトリ。
キセルは炭おこしの火吹きに使ったり、翁先生が背中をかくのに使う。
繭製ニワトリの隣には、ヒヨコのような落花生で出来たニワトリの子供がゾロリと並んでいる。
毎日誰かに食べられまいと、一生懸命生きている。
というのも、先日お客さんがニワトリの子供とはつい知らず、つまみ食いしてしまったのだ。
時には掃除機で吸い込まれたりして大変だ。
これは受け付け兼、掃除屋のミヨちゃんの仕業である。
その子供達は、明日は我が身かと不安の毎日が続く。
聴診器も一つだけあるが、片方の耳が壊れて使いようがない。
何十年も使っていないのか、いや、使ったことがないのかも。
毎朝、日の丸の国旗が待合室の外に掲げられる。
これが温古堂最大の目印看板だ。
ところが、この日の丸をそっくり盗んで行くヤツがいる。
今まで2〜3回やられたが、こんな時翁先生は、
「ホォ〜ッ。これはメデタイ。
きっといい事あるゾ。」
と喜ぶ。
こんな調子の先生である。
最近では、旗のスミっこに「温古堂診療所」とマジックで書いたためか、誰も持っていかない。
そして、この日の丸を見上げるように、下一面につゆ草がビッシリと咲いている。
翁先生は毎朝、このつゆ草の様子をうかがってから、温古堂に入って来る。
パターン、パターン
とスリッパの音と共に、ニコヤカにオハヨウゴザイマス、と鉄ビンの湯気を横目で見る。
湯気がドンドン出ていると上機嫌である。
ゆっくりといつもの席に腰掛け、特別自慢の芽茶をひとすすり、
「あ〜ぁ。今日も金華山見えねぇなぁ。
あいつは怠けてばっかりだ」
とタメ息をつく。
翁先生は、毎朝10Fの住まいの玄関から、定禅寺通り沿いに見える金華山をナガメルのを一つの楽しみにしているが、メッタに見えないのだ。
次に、カンカラの中のタバコを一本。
何となくホッとするという。
たまにホッとし過ぎて灰を落とす。
地球には引力がある。
平あやまりに本気であやまり赤くなる。
亀の子のように首を縮めて
「申し訳ネェなぁ……。」
専用のホウキとチリトリで、ミヨチャンが始末してくれる。
翁先生はなかなかお洒落だ。
いつもピッシリきまっている。
髪は七三に分け、毎月一回床屋へ行く。
顔は剃らずに、いつも十分位で終わり帰って来る。
ヒゲもマユゲもきまっている。毎日手入れする。
いつだったか、どうしてヒゲを伸ばしたのか? と聞いたことがある。
そうしたら翁先生いわく
「何となくカッコいいからサ。
ヘッッヘッェ。」
だそうだ。
温古堂では週刊誌を取っている。
翁先生はパラパラッとページをめくりゆくが、桃色の女性の出てくる所でスッと指が止まり、ヒタイの上に乗せてある、近くがよ〜く見えるメガネがストーンと自動的に落下し、鼻にぶつかって止まる。
すばらしい連動装置になっている。
まあ若い人にも負けないシャレ気に色気を充分に持ち備えている。翁先生と六十才違うが、チトかないそうにない。

翁先生は、医専当時に教えられた医学で実際治療してみたが、思ったように治らなかった。
患者はドンドンどっかへ逃げて行ってしまう。
どこへ逃げ込むのか見ていると、 様々な民間医療に逃げていく。
それで結構治っている。
困った。
それじゃあという訳で翁先生は、骨接ぎ師、鍼灸マッサージ師、といろんな人に頭を下げて教えを受けることにした。
この辺が、医師としてなかなか出来ないワザなのかも知れない。
カツドンなぞ食べさせたりして、頭を下げればその気になってドンドン教えてくれる。
「威張った人には
だーれも教えてくれないョ!」
と、八十九才のおんころや先生は、目尻を下げて教えてくれる。
医師歴六十五年である。
医専の時から連れ添った最愛なる奥さんに先立たれ、もはや九年。
毎月の命日には、お墓参りに行く。
ポンポンと奥さんをなだめるように、亀のコオラのような墓石を大きな手の平で、撫でるようにたたく。
ご長男の外科医、信先生と一緒にセンコウを間に手を合わす。
花が大好きな翁先生は、お墓の周りを花壇にしようと、懸命に土を運んでは種を蒔くのだが、どうしてか一つも花が咲かない。
なんの事はない、雑草を嫌うお墓の管理人が、セッセ、セッセと除草剤を撒いてくれるのである。
そのクスリ代は何を隠そう、お墓の管理代金として、毎月支払う翁先生一家の支出である。
翁先生は、奥さんのことを「クソババァ」と呼ぶ。
「うちのバァさんは、
俺のやってる事なんか
へのカッパみたいにしか
思ってなかった。
でも俺は、
医者として本当の仕事をやって来た。」
と言い切る。
奥さんに自分の仕事を理解してもらえなかったさみしさを心に秘めて…
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